プーケット旅行エピソード0
4月27日(土)から、海外旅行に行く予定だ。その前々日、木曜日に妻が熱を出した。どうなる海外旅行。
妻は「当日まで熱が下がらなかったら、先に行ってて。私は後から行く。」と言う。いやいや待って。1人で子供2人連れて海外とか厳しい。
妻が「何度も海外行ってるでしょう。」と言うのだが、台湾なら何とか行けるかもしれない、しかし今回は初のタイ、プーケット。上海で乗り継ぎするらしい。しかも妻が「今回乗る航空会社は評判悪いよ。」と言う。「無事乗り継ぎできる確率は3回に2回らしい。」3回に1回は乗り継ぎできないのかよ!確率高っ。何でそんな航空会社を予約したのか、と抗議すると、「金だよ金!この価格じゃなきゃプーケットなんて行けないよ!」と返された。そんなハードル高い海外旅行、俺一人でできるのか・・・。
木曜日の夕方、妻は病院に行き、インフルの検査を受けたら陰性だったらしい。そして医者に「翌日も熱が下がらなかったらまた検査受けに来て。」と言われたしい。「でも、インフルが確定したら海外行けないよ。」とも言わらたらしい。
検査してインフルだったら行けない。検査しなかったらインフルかインフルじゃないか分からないから行ける。シュレディンガーのインフル。つか熱あったら入国できなくね?
結局、前日に妻の熱は下がったのだった。
田舎の家
九州でも東北でもいいのだが、東京の子が、田舎のおじいちゃんおばあちゃんの家に行く、みたいな設定がある。夏のケンタッキーのCMもそんな感じではなかったか?ゲーム『ぼくのなつやすみ』でもいい。やったことないけど。その、『田舎の家』にあたる家が私にもある。
「沖縄に住んでる分際で何言ってんだ。」と、自分でも思うが、あるのだ。いわるゆヤンバル(沖縄の北部を指す)に、おじいちゃんおばあちゃんは他界していたが、家は残っていて、仏壇(先祖の位牌)があった。
幼い頃から毎年、シーミー(清明祭)と旧盆にはその家に行った。
『ぼくのなつやすみ』そのものだった。自然。田舎の子供達(何様だ。)との触れ合い。イベント。楽しい思い出だ。
私も41歳になり、父も70歳になった。するとちょくちょく、その家の話になる。思い出話ではない。相続の話だ。相続して管理するのか、処分するのか、親戚との管理関係・・・いやいや、めんどくさいよ。仕事と家族のことでいっぱいいっぱいだって。
しかし、時間は過ぎていく。父はどんどん衰え、私に責任が移るのだろう。あの楽しかった、ノスタルジックな田舎の家は、41時の私には、とてもめんどくさいものに映るようになってしまった。
原田マハを読む
年齢オブジョイトイさんから「原田マハはお好きですか?わたしはあまり好きじゃないですが」というコメントを頂いた。
知らない。原田マハ。原田といえば、原田宗典、原田泰造及び原田知世ぐらいか、知っているのは。原田宗典は読んだことはない。
「お好きですか?」と聞くということは、池上永一と似ているのだろうか?(『池上永一は夢のようだ』というエントリーにコメントを頂いた。)
原田マハを読んだことがないので、読んでみようと思ったが、読んで好きだったらどうしよう。年齢さんは原田マハが好きではないのだ。まあ、どうしようもないが。
原田マハをAmazonで検索すると、西洋絵画を題材にした小説をいくつも書いているようだった。沖縄を舞台にした小説もあったが、ラブストーリーらしいのでそれは避けた。
結局、『楽園のカンヴァス』というタイトルを、kindleで買った。お手頃価格で、カスタマーレビューも多かったので、代表作だろうと思ったのだ。
読み始めてまだ30%しか読んでないが、これは、私が好きなやつかも知れない。
アンリ・ルソーという画家の作品が題材なのだが、私はアンリ・ルソーを知らない。しかし、『西洋美術』というやつに、何か、「おお、すげえ。」と思ってしまうのだ。『西洋美術』が何かも知らないのに。(クラシック音楽も同様。)
旅行に行ったら、そこの美術館に行ってしまう感じと一緒か。(そうか?)
新婚旅行で、イタリアに行ったときも美術館に行ったが、何を見たのか思い出せない。それぐらい西洋美術に興味がない。しかし、「すげえ。」と思ってしまう小市民感。
何を専攻してるのか知らなくても「東大です。」と言われたら「すげえ。」と思うのと一緒か。(そうか?)
ふと、昔読んだ『ダヴィンチ・コード』を思い出す。しかし、ほとんど思い出せない。今読んだらまた楽しめるだろうか。
長女(6)がマンガを読みたいと言う
長女が、「マンガ読みたい。」と言ったらしい。
だからリビングに『僕だけがいない街』2巻が放り出されていたのか。
ウチには子供向けのマンガがない。
私はあまりマンガを読まないが、読むとしたらほぼkindleだ。
本棚には妻のマンガが、少しある。妻曰く、「厳選したものだけ残した。」
『僕だけがいない街』は、夫婦で面白く読んだマンガである。
『僕だけがいない街』で、主人公の母親が殺されるのだが、タイムリープして、母親が生きている時間に戻るところがある。長女は、母親が死んだのに、すぐ母親が生きていることが理解できないようで、妻に何度も説明を求めたらしい。
『僕だけがいない街』、読むなとは言わないが、長女には意味が分からないだろうと思って、私は長女用にマンガを買ってあげることにした。
とりあえず、3冊買った。1冊目は、『名探偵コナン』1巻。『僕だけがいない街』を手に取ったということは、長女はサスペンスが好きなのかもしれない。
2冊目は、『ドラえもん』2巻。2巻なのは、1巻が売っていなかったからである。『ドラえもん』は国民的マンガだし、また、日本人がタイムリープを理解しているのは『ドラえもん』のお陰である、という話をネットで読んだことがある。
3冊目は、『ちびまる子ちゃん』1巻。私達家族は見ていないが、『ちびまる子ちゃん』は国民的アニメである。
3冊を買い与えたのだが、食いついたのは『コナン』であった。
しばらくすると、妻が、長女にマンガの読み方を教えていた。コマを読む順番である。
「えっ、そんなの教えるの?」と言ったら、妻も子供の頃、母親に教わったとのこと。私は、初めてマンガを読んだ日のことは覚えていない。
それでも長女はコマを読む順番が理解できないらしく、何度も妻に教えを乞うていた。
確かに、四コママンガならコマを読む順番はシンプルだが、『コナン』でも、コマ割りが複雑で、初めて読む人には順番が分からないかも知れない。
私が小学生の頃は、親にマンガを買ってもらった記憶がなく、お小遣いでマンガを買ったときは、「そんなの買って。」と父親にディスられた記憶がある。
私は、ユーチューバーを見る子供達を見て、「そんなの見て。」という気持ちになるし、ユーチューバーを見るぐらいならマンガを読んでくれた方がまだマシという気持ちである。
謙虚な気持ちでいること
ウチから車で10数分のところにある中華料理屋さんに行った。家族で。
私が「近所にもうちょっと食堂があってもいいと思うけどね。ないよね。」と言うと、妻が
「いや、あるよ。探せばあるよ。」と言った。
「いやいや、もうないでしょ。」私達が住んでいるところは住宅街だし、私は生まれてずっと同じ街に住んでいる。あるはずがない。
妻が言う。「じゃあ近所の漫画喫茶の裏に食堂あるの知ってる?」
知らない。
「ほら。食堂はいろんなところに隠れているんだよ。もっと謙虚な気持ちでいないと。」
至言だ。
帰り道にその漫画喫茶の裏を通ってみた。確かに食堂があった。普段は通らない道だ。ウチから近いのだが。
さらに、その食堂の近くに、パン屋があった。妻もそれは知らなかったようで、「行ってみよう。」ということになった。
行ってみたが、まだ開店しておらず、準備中のようだった。いつ開店するかは分からないが、楽しみだ。
確かに、近所でも知らないことがたくさんあるようだ。謙虚な気持ちでいなければならない。
池上永一の小説は夢のようだ。
池上永一の小説を16冊読んだ。(上巻、下巻は2冊と数えています。)なかなか飽きない。小説業界のことはよく知らないけど、こんな小説を書く人は他にいるのだろうか?
キャラクターの暴走が酷い。「ありえない。」と思う。(そんなオバァはいない。)ストーリー展開も凄い。無茶苦茶。ついてけない。(特に『レキオス』)しかし、要所要所で語られる沖縄の文化、歴史。そこにはインテリジェンスを感じさせる。
いろいろ無茶苦茶だけれど、だからと言ってナンセンスだとかシュールだとか言うわけではなく、かろうじてエンターテイメント小説の体を保っている。無茶苦茶だから飽きないわけだけど、これより少しずれたら、もう本を放り出していただろう。
私の中でしっくりくる表現が浮かんだ。
「夢のようだ。」
一般的に、「夢のようだ。」という表現は、「理想的だ。」という意味で使われる。
しかし、寝ているときの夢は、冷静、客観的に考えれば荒唐無稽だが、見ているときはリアリティがあり、感情が揺さぶられる。
そんな感じ。